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喘息と聖霊

2007.6.25

喘息持ちだ。

正確に言うと「咳喘息」。
喘息の一歩手前の状態らしい。
呼吸困難というほどではないのだが、話すと咳き込む。
ここ数日はその咳もどんどん重症になってる感じがする。
喘息に片足突っ込んでるのかもしれない。
語り手として、歌い手として、こんなに辛いことはない。

朗読の技術、説教の語り口、合唱で培った歌唱力、どれもそれなりに自信があった。
癒される、柔らかい、きれい、などと褒められると素直に嬉しかった。
しかし、読めば咳き込む。語っても咳き込む。歌っても咳き込む。
ここ数年来風邪を引いた直後はいつもこんな感じだ。
それでも薬をすぐに飲めば大丈夫だったのに、今回は長引いている。

説教演習も教会奉仕も散々だった。
あと二週間しないうちに始まる夏期伝道。
中学生のキャンプ。
幼小科のキャンプ。
賛美ラリー。
全部出来ないんじゃないか。
人と話すことすらままならない自分。
気が重かった。

咳は本当に辛いものだ。
息の流れに乗せて言葉を相手に届けられない、精神的なストレス。
お腹に響く程の振動を、体全体で押し殺す肉体的なストレス。

神による癒しを願う自分。
しかし奇跡や現象ではなく主ご自身との交わりを求める信仰者でいたいという
普段からの気構えが邪魔をする。
素直に癒してくださいと祈れなかったりする。
「あなたの御心だけがなりますように。」と、肩に力が入ってしまう。

しかし、ひょんなことで素直じゃない自分に気付かされた。
体調が悪くて、次の日教会奉仕を休むにも拘らず、旧友との約束だけ守りに出かけた土曜日。
久しぶりに会った彼らとの会話では咳があまり出なかった。
今思えば薬が効きだしたのが多分この辺りなのだが、
とにかく咳が出ないということの喜びを思い出した。
癒してください素直に祈れた。

聖霊が気付きを与えてくださるのは御言葉のままに語られる御言葉を通してがまず基本だろう。
しかし自分勝手にしかなかなか聖書を読めない私たちに対して、
他人の口を通してや、また状況を通して聖霊が働かれるということがある。
素直に祈れるようにと、主は押し出してくださった。

ヘブル語で息のことを「ル・アフ」と言う。
それはそのまま「霊」を表す言葉だ。
神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。(創世記2:7)
楽に呼吸をさせてください、そしてあなたの霊で満たしてくださいと祈った。

帰りの電車で聴いた賛美の歌詞に慰められた。
Hillsong "Mighty to Save"より、
Oceans Will Part

If my heart has grown cold,
There Your love will unfold;
As you open my eyes to the work of your hand.
When I'm blind to my way,
There Your Spirit will pray;
As you open my eyes to the work of your hand,
As you open my eyes to the work of your hand.

Oceans will part; nations come
At the whisper of Your call.
Hope will rise; glory shown.
In my life, Your will be done.

Present suffering may pass,
Lord, Your mercy will last;
As you open my eyes to the work of your hand.
And my heart find praise,
I'll delight in Your way,
As you open my eyes to the work of your hand,
As you open my eyes to the work of your hand.

Oceans will part; nations come
At the whisper of Your call.
Hope will rise; glory shown.
In my life, Your will be done.

心が冷たくなったとしても、そこに主の愛が開かれるのだ。
御手のわざに私の目が開かれるよう。
道が分からずに真っ暗なときも、そこで主の御霊が祈ってくださるのだ。
御手のわざに私の目が開かれるよう。

目の前の海は分かれ、
やがて終わりの日にすべての国々がみもとに来る。
主の細き御声、その召しのもとに。
希望は昇る、主は栄光を見せてくださる。
主よ、私の人生に、あなたの御むねがなりますように。

今この時の恐れは過ぎ去り、主よ、あなたの恵みは続いていく。
御手のわざに私の目が開かれるよう。
私の心は主への賛美を回復させ、私はあなたの道で輝くのです。
御手のわざに私の目が開かれるよう。

 ◆

今日、学園の昼のチャペルではローマ書8:31-39から語られた。
神が味方であるところの私たちの描写が直前の箇所にあった。

神を愛する人々とは、
神のご計画に従って召された人々。
あらかじめ知っておられた人々。
御子の形と同じ姿にあらあかじめ定められた人々。
あらかじめ定めた人々をさらに召し、
召した人々をさらに義と認め、
義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになった、そういう人々のこと。

なんてこった。
こんなにしてまで選ばれてたなんて。

高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(8:39)
それなのに、学校でいろんな人に健康状態を心配されるたびに「もうだめ。」とか冗談にせよ言っていた自分が悔やまれた。
神様の愛の中で憩っていれば、そんな程度の低い冗談は出てこないだろう。
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(8:32)

主の栄光を汚し、
主の平安を軽んじ、
そしてそのことに気付かずにいた自分。
罪の本質、それは戒めを破ることではなく、自分を隠すことであり、そのことに気付かないこと―。
聖書神学の授業で言われていたことが頭をよぎる。

 ◆

喘息の話に戻る。

自転車で10分くらいのところにある小さなクリニックの先生にお世話になっている。
咳喘息をきちんと見抜き、薬を処方してくださった先生だ。
この前の診察のとき、ご自身も喘息持ちであることを話してくださった。
辛さを分かってもらえるということの有難みを感じた。

今日は薬だけもらうつもりで終診時間ギリギリに行った。
そしたら点滴を打ってくださり、吸入器まで貸していただいた。
診察時間が終われば看護士さんたちを帰し、
ご自分で最後まで説明をしてくれた。
ついでに、「オフロードは走れません」シールのついた僕のマウンテンバイクを笑ってくれた。
卒業して印西を離れても、この先生には年賀状を出そうと思った。

この先生から、僕は「sympathy」ということを習った気がする。
自分もそうだから、何とか助けてあげたいという気持ち。
「一方的なあわれみ」ではなく、「共感としてのあわれみ」。
これは牧師を目指す者には必須の感情だ。
目の前の人が苦しんでいるその状況は、
「自分もまさにそうである罪」のゆえなのだ。
自分もそうだから、何とか神様のほうを向いてほしいという気持ちである。

寮に帰って一人ご飯を食べながら、
教会での高慢な自分の姿が思い出されて涙が止まらなかった。
罪の本質、それは戒めを破ることではなく、自分を隠すことであり、そのことに気付かないこと―。
まさに僕は罪人だった。

主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。(ルカ5:8)
自らの罪に気付かされたペテロの気持ちが痛いほどよく分かった。
しかしそれでいて私にはこう高らかに宣言することが許されているのだ。
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8:39)
涙が止まらない。
悔い改めの祈りをささげた。



この心は主への賛美を回復させ、主の道で輝く。
主の御手のわざに、この目が開かれ続けていきますように。



今日は本当に霊的な日だった。
罪を示されたり、福音の分かち合い方について目が開かれた。
これが聖霊の働きでなくてなんだろう。
聖霊体験と言うときに、神秘的な体験のことが意味されることがよくあるし、
そうやって取り扱われることも当然あるわけだけど、
現象そのものではなくて、平安を。
御言葉の真実を。
愛を分かち合う交わりを。
与えられていきたいと切に願う。
それこそは、主が生きておられることの証。
うちの教会の目標の一つに、「御言葉の真実を体験し、それを分かち合う」ということがある。
これを読むあなたに、恵みの分かち合いとなればと願っています。



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motomutanaka


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