献身

2005.5.12

この度、千葉県は印西にあります神学校で学ぶことになりました。
そこに至る北総線という線路は、日本一電車賃が高いとか…(涙)。ガクセイヲイタワッテクダサイ。

「献身」とは、何かのために人生ささげて生きていくこと。
クリスチャンの業界用語としては、
狭い意味では教会関係の仕事に就くことの意味に使われます、大まかに。
そのための必要な学びと訓練の期間に入るわけです。

教会に仕えるとは、僕なりの定義で言えば「回復と成長」のために働くことです。
神様とまだ出会ってない人にはその関係を回復してほしい。
神様と共に歩んでいる人にはその歩みを全うしてほしい。
牧師はそのために毎週聖書からメッセージを語るのだと思いますし、
伝道師もそのために教会で働きます。

「教会に命をかける」と今までも口では言ってきました。
しかし、いざ仕事も辞めてフルタイムで仕えていくための第一歩となるとやはりビビリます。

誤解のないように言うと、神様の働きのために使っていただくのは喜びです。
(「罪」とか「The Power of Your Love 試訳」を参照してください)

でも自分自身に関する自信は皆無です。
こんなことを言うと、応援してくださる方々に申し訳ないのですが、
回復と成長という働きのために、僕個人に優れたものはないのです。

教会は世間から隔離された清い場所…ではありません。
そうだったら楽なのですが(笑)、残念なことに違います。

私たちはともするとすぐに、自分が神であるかのように振舞います。
教会は罪の見本市、と言った友人がいます。
自分自身も含めた罪人集団の中で、僕に何が出来るでしょう。
回復と成長なんてことが可能なのか?
両方とも僕には無理です。よく分かってます。
繰り返します、自分に自信はありません。

しかし教会は確実に、ある特異性を持つ際立った存在です。
そこにはキリストの十字架ゆえに赦された喜びの知らせがあるのです。
自分が神に赦されていることを知り、
目の前にいるこの人もそうなのだと、
そのことゆえに一致させられる共同体、それが教会です。

聖霊が実らせるところの愛によって各々が結び付けられた共同体、それが教会です。
実際そうは見えなくとも、です。

そこにだったら希望があります。
僕自身に期待はできないし、そこにいる人たちにも期待はできないけど(失礼!)
教会が教会である以上、教会には期待して大丈夫なのです。
そこにはキリストが満ちておられるからです。
イエス様が「わたしが建てる。」とおっしゃって生まれた教会だからです。

そして教会生活を通して僕は最終的に献身のために押し出されました
(そのことは機会があればまたいつか書きます)。
だから僕はそこに応答したいのです。

聖書の御言葉に、会衆と一緒になって刺されていく説教者になりたい。
教会がキリストの十字架による赦しの福音で一致させられた群れであるのなら、
そして自分もその一致の中に入れられているのなら、
牧師が語る聖書のメッセージは「教え諭す」ものではなく(そんなの僕には無理です)
一緒になって御言葉に感動していくという方向であるべきです。
というより、それしかできないでしょ。
自分も一緒になって「回復」し、「成長」していきたいじゃないですか。

自分自身の何かを誇って献身するのではなく、
こんな自分を用いたもう神様のわざにのみ期待して、
まずはこの四月、神学校の門をくぐるのです。

冒頭で「ビビってます」と書きましたが、それ以上に「興味津々」なんです。
神様はこんな僕をどのようにして用いられるのでしょう。

教会の主に信頼して、行ってきます。

みなさんのお祈りが必要です。
よろしくお願いします。


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