キリストのまなざしを
2004.12.10
しばらく前にアップした「罪」の内容について、
あれはあれでよかったのだけど、
あのような認罪に到達しえたという傲慢にやられていたというか、
「大きいこと」言ってたわりには
「小さな罪の数々」に鈍感になってる自分を感じていました。
最近ウォルター・ワンゲリンの『小説「聖書」新約篇』を読んでいて、
涙がにじんだ部分(はたくさんあるけど)をちょっと引用します。
ペテロという名のシモンの話。
人生最大の挫折感がまだ癒えない中で最愛の師と再会する場面。
聖書で言えばヨハネの福音書21:15〜17にあたります。
…
「ヨハネの子シモンよ、あなたはこれらの人々よりもわたしを愛するか」
「はい、主よ」わたしはどなって答えていたようだ。言葉はすぐに、ひとりでにわたしの口から出た。「はい、主よ。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」
イエスはほほえみも、まばたきもしなかった。彼はおごそかに言った、「わたしの子羊をやしないなさい」
ほんとうなのか。彼の場所にわたしも入れてくれるのか。わたしはそんな考えをきわめてはかなく、きわめて不確かにもった。
それでも彼は、わたしをみつめるのをやめなかった。
そしてふたたび言った。
「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」
同じ言葉。二度めだった。
わたしは本気だったし、わたしが本気であることを彼に信じてもらいたかったので注意深く言った、「はい、主よ。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」
彼は言った、「わたしの羊の番をしなさい」
それでもまだ終わらなかった。彼はわたしをみつづけた。するとわたしには何が来るかがわかり、それはほんとうに来た。
彼は三度めに言った、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」
わたしは頭をたれ、子どものように泣きだした。彼はたずねながら語っていたのだ。彼は知っていた。知っていたのだ。わたしが彼のことなど知らないと何度言ったかを、彼は知っていた。知っていたのだ。
わたしは彼に向かって顔をあげることができなかった。わたしは言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることを」
そのあと大きな沈黙があった。だれかが動いていたが、だれも何も言わなかった。
すると彼の手がわたしの肩に置かれるのを感じた。イエスはわたしの前で、ひざをついていた。イエスはわたしのあごの下で指をまるめて、わたしの頭をあげ、わたしは涙をとおして彼の目がやさしさにあふれているのをみたので、ますます泣きさけぶばかりだった。
彼は言った、「わたしの羊をやしないなさい」
そうだ。イエスはわたしに神の国に場所をあたえていたのだ。
〔わたしの群れの羊飼いになりなさい〕
はい、主よ。わかりました。
…(ワンゲリン『小説「聖書」新約篇』p.255)
日々の生活の中で、
例えば苦手な人に冷たく接することに慣れてしまう。
例えばどう見てもキリストが必要な人に対して
何も福音を証しない、それを願いもしないということに慣れてしまう。
キリストが十字架にかかるほどに愛したその人を愛さない。
愛そうともしない、愛を下さいと祈ることもない。
つまり、僕は毎日ペテロと同じことを言っている。
大祭司の庭で三度「イエスなんて知らない」と言い切ったペテロと、同じことを言っているのだ。
彼は三度問いかけられた。
僕は何度問いかけられても足りる気がしない。
初めは勢いよく答え、そのうち慎重に、そして最後には泣き出す。
しかしこの方は決してあきらめない。
わたしの羊に仕えなさい、教会に仕えなさい、と
こんな者に声をかけ続けてくださる。
これが私の主。
この方のまなざしをいつも感じていたい。
そしてそれに応えたい。
キリストを否定する生き方ではなく、
キリストをからだで証していく命であれ。
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