ギリギリライフ
2005.1.6
とても尊敬する信仰の先輩が教会を離れて数年経ちます。
教会に戻らない理由を誤解していましたが、彼が「ギリギリ」に生きようとした結果でした。
「神様に対して、人に対してウソをついてきたその垢」を、しっかり落としてほしいと思います。
さしずめ、すり石は御言葉、ボディソープは御霊、イエス様の愛が温泉、と言ったところでしょうか。
ギリギリの真摯さで神様と向き合っている姿を見て、
「聖徒を特別に扱われる」主(詩篇4:3)に、彼をゆだねました。
教会は信徒のギリギリの場として機能し得る…僕は自分のギリギリでここに立ち続けたいと思っていますYO!
最近新約聖書の手紙を読むのが好きです。
ルカも、パウロも、ペテロ、ヨハネ、ユダ(※イエスを裏切ったイスカリオテのユダではありません)も、
自分の内側からの言葉でキリストを証し、福音を書き送ったその情熱を感じます。
僕は自分が育った関係上、キリスト教の宗教用語をある程度使いこなすことができます。
それを並べて祈ることも、賛美することもできます。
しかし、主に与えられた命を生きるということは、
主に頼り、主に聞いていくということは、
借り物の言葉を並べることではないと、ここ数年来迫られています。
自分の言葉でそこに生き、共に悩み、苦しむことを避け、
他人の信仰を表面だけ借りてきて前例としてそれに倣う…
僕は過去、そうやって仲間との間に線を引きました。
出来るならやり直したいことの一つです。
知情意のすべてをかけて真摯に批判し、吟味し、そして受け取り直していく、
その連続の中に置かれ続けるのが人生であり、
信仰者の生き方も例外ではないどころか、
神様に対してウソをつかない真摯さが問われるのです。
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:5)
自分のギリギリ精一杯を尽くして、神様の前に、人の前に生きていきたいです。
motomutanaka