私の口で
2005.11.15
2005年10月13日(木)クラス早天
新聖歌434
おはようございます。本日の聖書箇所は非常に長いので、一節二節に絞らせていただきます。お読みします。
私は、主の恵みを、とこしえに歌います。
あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。
私はこう言います。
「御恵みは、とこしえに建てられ、
あなたは、その真実を天に堅く立てられる」と。(詩篇89:1,2)
「恵み」と「真実」が一セットで述べられていることに気付かされます。
これらは密接な関係にあるようです。
同義、と言っても差し支えない部分があるように思います。
恵みであり、真実であることとは、何でしょう。
その最たるものは、キリストの十字架です。
自分の汚さ、情けなさ、罪深さを知れば知るほど、
自分は本当に救われているのだろうかと疑いたくなるのが人の常です。
しかし、キリストの贖いはすでに完全になされ、
ヘブル書やヨハネの手紙には、それが真実であると明記されています。
すでになされた、驚くべき恵み、驚くべき真実です。
さて、一節には「私の口で知らせます」とあります。
語る内容としての「真実」のほかに、
私たちが語る態度としての「真実さ」があることが伺えます。
口で語るのですから、その言葉には「真実さ」が求められているのです。
では、私たちに求められている「真実さ」とは何でしょう。
私たちが「口で知らせ」るとき、それは全存在をかけた言葉であるはずです。
救われたものとして、「驚くべき恵み、驚くべき真実」は「真実に」語らなければなりません。
そしてそこには、自分を救ってくださった神が、
今自分とどのように関わってくださっているのかという証が含まれるはずです。
自分自身であるところの、この生の自分に、神様がどう関わってくださっているか。
それこそが、あなたが胸を張って言える真実のはずだからです。
この詩篇の作者が心の底から歌ったその内容は、
三節以降を読めばわかります、彼らの生の証、彼らの真実です。
もちろん、私たちの真実が信仰の土台なのではありません。
永遠のいのちは私たちの真実によるのではなく、主の真実によるのです。
そこは間違えてはいけません。
私たちの貧しい証よりも、御言葉に重きが置かれてしかるべきです。
しかし、それを理由に、
等身大の自分で、ありのままの自分で福音にぶつかっていく作業を怠るなら、
その人は真に福音に生きているとは言えないのではないでしょうか。
一節にあるように、「私の口で」、つまりこの全存在をかけて、
私たちは全身全霊で福音を、そして証を語らなければなりません。
一つ覚えたいのは、「私たちの口」に賛美を与えてくださるのは主だ、ということです。
詩篇40:3にこうあります。
「主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。」
主が賛美を与えてくださり、私たちは恵みを歌う、真実を語る。
それを多くの者が見、主を恐れるのです。
神様が私たちにしてくださった、与えてくださったことの証を、
飾らないでそのまま歌っていきたいと願わされます。
二節、「その真実を天に堅く立てられる」。
ここからは私の証になりますけれども、
「天に」と言われるとき、思い出させられるのは詩篇103:11です。
「天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れるものの上に大きい。」
これは、私が献身の思いを確かにさせられた時の御言葉の一つです。
目の前に広がる雲海を見渡しながら、
創造主なる神様と被造物なる私の圧倒的な違いを見せ付けられ、
Tペテロ1:2と共にこの御言葉をもって献身に導かれました。
あれから四年経って、今、私はここにいます。
献身のことを忘れていた時期もある、右に行き、左にそれました。
しかし主が折にふれて御言葉を与え、支えてくださいました。
与えられた御言葉を挙げればキリがありません。
主が真実なお方であるということを、
私はこのことを通して、全存在をもってアーメンと、心から言うことが出来るのです。
ある教会の祈祷会で証を頼まれ、
立派なクリスチャンの証は出来ないけれど、
自分自身が神様と向き合う中で御言葉によって支えられ、
御霊の導きの中を歩まされてきたそのことの証なら出来ますと、
ノンクリスチャンの青年に向けて話したことがあります。
その時の自分にとって一番リアルな神様の恵みは、
許されてこれから神学校で学ぶということ、
そこに至るまでの御言葉に支えられた歩みのこと、でありました。
今述べた話を、そのままお話ししたのでした。
立派なクリスチャンの証ではなく、言わば、自分自身の生の証です。
そうしたら言われました、「神様っているんですね。」
頭を殴られるような気がしました。
自分は今まで何を信じてきたんだろう、そう思わされました。
まさに、先ほど読んだ詩篇40篇の通りだったわけです。
この夏、彼は洗礼を受けましたが、海から上がったときのその顔の輝きを忘れることができません。
物思いに沈むような、決して明るい表情の青年ではなかったのに、
その顔は主にあって新しく生まれた喜びで満ちていました。
今度は逆に私のほうが、「神様っているんですね」と思わされました。
自分自身の全存在をかけて、うそ偽りなく、また妥協もなく、
主の真実を、その恵みを歌っていきましょう。
私は、主の恵みを、とこしえに歌います。
あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。
私はこう言います。
「御恵みは、とこしえに建てられ、
あなたは、その真実を天に堅く立てられる」と。(詩篇89:1,2)
祈ります。
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