銃ではなく棕櫚(しゅろ)の枝を

2007.2.12

「君たちは将来銃を持つだろう。その時、自分はどうするべきなのか考えることの出来る人間になっていてほしい。」
高校時代、沖縄県から来た牧師の講演を聞いた。
まさかと思った。

あれから八年が過ぎようとしていて、社会はまったくもって変わってしまった。
ふとあの言葉を思い出さざるを得ないようなシナリオ。

僕はこの国が好きだ。
日本語が好きだ。
助詞一つで多彩に描き出せる心。
また、巡る四季が好きだ。
流れる雲、寝心地の良い風、いつまでも眺めていたい夕日、そしてたまに見る暁。
目が覚めるような緑の葉、秋には金色の稲穂。
そしてそこに生きる人たち。
日本は美しいと思う。
だから、まずはこの国を感謝しますと祈る。
決められた時代、決められた場所に、この国に生かされているのは、神のご計画による。

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。(使徒17:26,27)

まずはこの国を感謝しよう。

しかし今の日本が向かっている方向は本当に危ないと思う。
教育基本法はあっという間に変わってしまった。
憲法九条も時間の問題だろう。

「公共」とは本来、publicのことだ。
それは異なるものたちが対話できる環境のことだ。
しかし新しい教育基本法に盛り込まれた「公共」とは「公」(お上)のことであることが明らかだ。
それは国であったり、官であったり、ひいては天皇のことであったりする。

天皇は果たして象徴か?
天皇が神になる儀式、大嘗祭には国費が当てられる。
あの日、母校は通常通りに礼拝を守り、授業を行ったという。
それは信教の自由、私学の自主性を踏まえた立派な「公共」教育だった。
しかし大方の学校が「公」のために授業を休んだ。
店も閉まった。町中が静まり返った。
やはりこの国は「国家神道に規定された文化社会」なのだ。

異なる他者が「公共」的に生きられる社会をこそ成熟した社会と呼べる。
しかし「その地域に最もポピュラーな一つの宗教を利用することで強烈な政治目的を達成しようとする」動きがある。
それはイスラム原理主義だったり、
アメリカのキリスト教原理主義だったり、
日本の神道原理主義(靖国原理主義)だったりする。

かつて経済大国の名をほしいままにした日本。
しかし今では経済も低迷し、モラルは乱れ、安全神話も崩壊している。
誰もが不安を抱え、自信をなくしている。
そんな時に日本人の心をつかんだのが
羽織袴で颯爽と靖国を参拝した某首相のかっこよさだったのだ。
首相から届くメールマガジンなんてアイデアも斬新だった。
登録していた人の数は相当なものだろう。
不安が解消されることを望み、自信の回復を信じて若者が原理主義に傾いていく。
「近い将来、銃を持つだろう。」あの言葉が耳に響く。

しかし原理主義から回復は生まれない。
日本人の心の飢餓=生きにくさと静かに向き合う能力の欠如は、
原理主義で満たされることはない。
神道原理主義然り、いわんや、キリスト教原理主義然り。

教会よ。
今、福音にこそしっかりと立とうではないか。
これからは教会の出番なのだ。
慰めのよき知らせを受けた者たちは、今こそ福音を伝えなければならない。

よき知らせを受けた者は、それを語り伝える役目を担う。
根拠のない慰めではなく、
思弁的な希望でもなく、
この世界をつくり、今も治めておられる方の御思いを
人々に届けなければならない。

キリスト者よ。
イエスが十字架に死なれたということは、
私も十字架に死んだということだと告白を新たにしようではないか。
カルバリの十字架にかかったのは麗しいイエス様、可愛そうなイエス様ではなくて、私の罪なのだ。
私の古き人は十字架でもう清算済みなのだ。
だから己が身を通してキリストの栄光が表されていくことへの渇望を満たしてはならない。
見えるところの自分で諦めてしまうのではなく、
見えないものにこそ目をとめ、
やがて戻ってこられる方への希望を胸に大胆に歩もう。

この方を迎えることにこそ希望があるのだ。
銃ではなく棕櫚(しゅろ)の枝をこそ、握っていたい。

その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」(黙示録7:9,10)




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