2004.11.5

特に悪いことをしたつもりもない、
でも聞かされてきたこととして
「自分は罪人であり、イエス様の十字架はその自分が赦されて永遠のいのちに入るため」
ということは信じてきた、
ごくありふれた普通のクリスチャン二世だった。

キリストについて行きたかった。
自分のために、宇宙の創造者が(果てしない…)が飼葉桶に生まれたという歴史の事実、
ゴルゴタの十字架が、自分のためだったという聖書の主張に思いを馳せるとき、
その愛に応えたいと思った。

そして、
聖なるものにして下さい、
義なるものにして下さい、
あなたの名前をおとしめさせないで下さい、
愛のなさを知るたびにそうやって祈ってきた。


でもある時、
イエス様の十字架だけが義であり、
僕らに義はなし得ないのであり、
だからこそ神の子が十字架にかかったことを知った。
ショックだった。

どこか、自分は聖くなれると思っていた。
義しくなっていけると思っていた。
そしてそれこそがキリストの名前にふさわしいものの姿だと思っていた。

でも、どうやらそれは僕の思い違いだったみたいだ。


「あなた方は、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2:8)

「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」(ガラテヤ3:3)

これらの御言葉は何回も読んだはずだった。

自分で自分を救おうとしているなんてバカなこと、あるわけがなかった。

アダムとエバが禁断の木の実を食べたのは、
つまり神なしでやっていけるという意思表示。
自分が同じことをしているなんて考えたこともなかった。

しかし、これが原罪だった。
僕のうちにしっかと流れているところの、「(信仰においてですら)神を必要としない」という意思表示だった。


聖書の「義」という言葉を
「それはイエス様の十字架のこと」と読むようになってから、
聖書が一貫性を持って迫ってくるようになった。

「自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8:34)という聖書の言葉は
自分が背負うはずだった十字架を主が背負ってくださったというそのことを
絶えず受け取り続けていくこと。
それが「自分の救いを達成する」(ピリピ2:12)ということだと思うと納得できた。
こんなに全部神様にやってもらっていいのかと戸惑ってしまうこともあったけど、
聖書に流れるメッセージが一つのことだとすれば、
こういうことに違いなかった。

「聖」とは「きよさ」のことではなくて、
罪の私たちとは「完全に違う」神の性質のことだった。
それに対してこちらは汚いままの者でしかないのに
「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:24)
神が聖いと一方的に宣言してくださったことの重大さを知った。

「聖めて下さい。」
それは、「聖い。」と言って下さる方の言葉をそのまま受け取らせてくださいという祈りに変わった。

自分の愛のなさは身にしみてわかる。
どれだけ人を傷つければ気が済むのだろう。
しかしこんな取るに足らないものを愛してくださる方がいる。

自分の中に愛はない。
しかし、その土の器に、聖霊が実を結ぶ。
陶器のカップが温まるように、
聖霊の愛が僕を温める。
その温かさを、隣の人と分かち合っていきたい。
カップはやがて冷たくなるけれど、
何度でも、さらにさらに、注いでもらえるのだ(ヤコブ4:5,6)。

なんだかとっても楽になった。

なんだかとっても嬉しくなった。

そして、主についていくことは喜びになった。

赦された喜びを、人と同じ目線で、人と同じ苦しみの中で分かち合っていきたいと願っている。




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