嵐の中で
2006.10.28
市川福音キリスト教会水曜祈祷会(10/4)にて・加筆修正版
夜の祈祷会なので、夜にまつわる聖書の箇所を取り上げていきたいと思います。今晩はマルコの福音書、4:35−41をお開きください。一節ずつ輪読していきたいと思います。
35節、「その日のこと」と言われます。その日、イエス様は何をされていたのでしょう。直前の箇所を読むと、神の国について話されていた事がわかります。種まきのたとえ、からし種のたとえ、他にも多くのたとえを用いて、イエス様は神の国について話をされた。その日の夕方、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われたのでした。イエス様の方から、向こう岸へと新しい出発を促されたその船出は、あたかも神の国の前進、教会の営みの前進です。
36節、私たちは周辺的なことを脇において、イエス様に従います。イエス様が行こう、と言われたところへ、ついていくのです。私たちはあれも捨て、これも捨て、イエス様について来たつもりでした。しかし37節、その道は決して平坦ではない。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになってしまうのです。弟子の多くは漁師でした。湖は知り尽くした、一番安心できる場所だったかもしれません。しかしその夜、舟に襲いかかる底なしに真っ暗な水を前に、彼らは何を思ったのでしょう。
この地で、祝福を受け継ごう―。私たちの教会の歩みも、また、そこに連なるお一人お一人の歩みも、もしかしたら、この弟子たちと似ているかもしれません。イエス様を信じて歩み出した、向こう岸へと漕ぎ出したその深みには、嵐が待っていた…ということがあったかもしれないし、今そうかもしれないし、これから嵐が起こるかもしれません。
38節、「ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。」頼みの綱のイエス様は何と眠っていらっしゃる。弟子たちは焦ります。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか!」嵐の中で、弟子だったらイエス様の身を案ずるべきところです。「イエス様!大丈夫ですか!!」と声をかけた者は、しかし、いませんでした。
もちろん、そんな心配をするまでもなく、イエス様は大丈夫なのですが、苦難の中で自分のことしか考えられない弟子たちの姿に、自分を重ねてしまうのは私だけでしょうか。
そんな中で、39節は慰めです。「イエスは起き上がって」、そう。イエス様は自分のことで精一杯の祈り、いや、叫びに答えてくださるのです。私たちの求めに応じてくださるのです。そして吹き荒れる風をしかりつけ、荒れ狂う波を静めてくださいます。そしておっしゃる。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」これはもっとストレートに、あなたはまだ信仰を持っていないのか?という問いです。
私たちは何を期待されているのでしょうか。マルコの福音書6:6には、イエス様が人々の不信仰に驚かれたとあります。さらに読み進めると、物分りの悪い弟子たちの姿が詳細に描かれているのがマルコの福音書です。「信仰がないのは、どうしたことです。」イエス様のお言葉が、私の耳にも痛く響きます。私だって、嵐をも恐れない信仰者となりたいです。なりたいですが…。
マルコの福音書は平易な文体で、出来事が並べて書かれているという特徴をもっています。もちろん、聖霊がマルコを通して書かれたのであり、そこには明確に主の側の意図があります。福音書は無味乾燥な出来事の羅列では決してありません。しかし、イエスと弟子たちの旅が始まったばかりのこの場面で、「信仰がないのはどうしたことです?」と問われるこの箇所から、嵐に対しても波風に対しても恐れない、完璧な信仰者になろう!ということを読み取らなくてもいいのではないか、と思います。この箇所は41節に集約されるように、弟子たちがイエス様を不思議がる、そのことを描いているのです。むしろ、弟子たちのように自分勝手な祈りしかできないけれども、慌てふためくことしかできないけれども、恐いものは恐い、どうしたらいいのか分からないけれども、しかしとにかく必死でイエス様と同じ舟に乗り続けるという、その姿勢を学びたいと思います。
そんな私たちに、主は、こう声をかけてくださいます。「信仰がないのは、どうしたことです。」直訳するなら、「あなたはまだ信仰をもっていないのですか?」
今すぐそんな完璧な信仰者にはなれませんけれども。嵐に対しても恐れを知らない鋼の信仰を、今はまだ持っていませんけれども。しかし主は、「向こう岸へ渡ろう。」と私たちを導いてくださるお方です。信仰の深みへと、信仰の新しい陸地へと、導いてくださるのです。主に押し出され、その先で試練に合い、そして主に「信仰がない」と諭される。その繰り返しを楽しんでいきたいと思うのです。不謹慎でしょうか?
私は弟子たちのこの言葉が好きです。41節。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」きっと、ポカーンと口を開けていたと思います。
神様に不可能なことはないと知識で知ってそこにあぐらをかくよりも、「あなたには本当に不可能なことがないのですね!」と毎回新しく驚き、その不思議に神を賛美するものでありたいです。そうすればこそ、確実に信仰は成長していく。そう信じています。
私たちのこの舟も、そんな旅を続けようではありませんか。
最後にもう一度本日の聖書箇所をお読みします。その後少しの間、それぞれでお祈り下さい。
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