証
2008.3.30
みなさんのお祈りに支えられて、3月6日に神学校を卒業しました。在学中は、お祈りと温かい励ましを本当にありがとうございました。献身の証をさせていただけることを感謝しています。証とは、品質保証の証の字を書きます。私はみなさんの前で自分の品質保証は出来ません、もうバレてますから。しかし、神様の真実を証したい。神様の真実を証したい。献身とは何かということから、そしてそこに導かれた経緯について、そして今、神様に取り扱われていることについて話させていただきます。
献身とは、身を献げることです。神様のわざのために、この人生を使っていただくことです。人の生きる目的は、神の栄光を表すことという表現がありますが、クリスチャンは、自分の人生を通して神様の栄光が表されるようにと願い、祈るものでしょう。その意味では、クリスチャンは全員が献身者だと言えるかと思います。献身とは、神様のわざのためにこの人生を使っていただくことなのです。
しかし、注意が必要です。この身を通して神の栄光が表されることとは、立派なクリスチャンとして一目置かれる人になることや、賞賛の的になるようなクリスチャンライフを送ることを意味するわけではないからです。こんなにどうしようもない自分が、こんなに罪だらけの自分が、神に愛され、赦され、生かされているというその奇跡を証すること。そのことによって、神に栄光が帰されるということ。私たちのこの身を通して神の栄光が表されるとは、そういうことでしょう。ある意味ではクリスチャン全員が献身者だと言いましたが、私たち一人一人が、罪の自分の現実を直視して、そこから逃げないで、しかしそこでイエス様の十字架を仰ぐ生き方に召されています。私たちはそうやって、十字架で私たちのために死に、そしてよみがえられたイエス様の栄光を証していくのです。
その信仰者の集まりを教会と言います。一人一人が献身者と言いましたが、しかしみなが教職者になるわけではなく、そこには牧師や伝道師が立てられます。それが狭い意味で献身という言葉が表すところの役割です。組織運営のために雇われるということではなく、教会の出来事、霊的な出来事、信仰の出来事と言えます。献身者の仕事は、自分の思い通りの教会を作ろうとすることではありません。キリストのからだである教会を、自分の思い通りにではなく、神の御心に沿わせて整えていくことがその役割です。
献身は、だから自分の能力や自分の正義に頼っての出来事ではありません。神様にイニシアチブがあります。自分にはこれができる、あれができる、だから私を使ってください!という自己実現ではなくて、神様に襟首をつかまれて、嫌です!無理です!ってじたばたするんですけれど、観念して、分かりました、あなたがおっしゃるのなら、どうぞお使いくださいと応答することだと思います。
だから、基本的には常に恐れがつきまといます。自分に自信を持って、神様と教会に自分を推薦申し上げたわけではありませんから。自分自身を神の前に差し出すことすら、日々古い自分との戦いだというのに、教会の霊性(つまりこの教会に聖霊の実がなっていくということ)において責任が問われる役割は、はっきり言って恐れでしかありません。
伝道師就任に際して、恐れ恐れとくり返して、果たしてこいつはやる気があるのかと不安に思われるかもしれません。しかし、神様の御心ってどうやって分かるのでしょうか。自分が伝道師になることが神様の御心だ!なんて私は言えないんです。自分の確信を振りかざせば楽ですが、しかしそうではなく、この歩みが主の御心にかなったものでありますようにと祈りながら、目の前の道を誠実に一歩一歩歩んでいくことしか私たちには出来ないと思いますし、それが真実ではないでしょうか。キリスト教的な言葉で飾り立てるのではなく、自分のギリギリ精一杯の誠実さで神様と対面していたいと思うのです。御心でないならいつでも降ろしてください、しかし、もし許してくださるのなら、精一杯やらせてください。そう祈っています。
嘘偽りのない自分自身で神様の前に立つこと。これが信仰だと思います。献身も信仰の出来事ですから、同じことが言えます。では自分はどうやって自分のギリギリのところで神様に応答して来たか、今応答しているか、これから応答していくのかを話したいと思います。それは私の歩み云々ではなくて、御言葉の力、御言葉の真実です。
2001年の夏、大学三年の私はいつものように富士山の山小屋でアルバイトをしながら、卒業後の進路に悩んでいました。学校の先生になりたいという思いと同時に、しかし小さい頃から聞き続けて来た「収穫は多いが、働き手が少ない」という御言葉が耳から離れないのでした。小さい頃から親と一緒に教会に通っていましたから、牧師の大変さはそれなりに見たり聞いたりしていて、そんな大変な職業には就きたくないと、「献身」という言葉にはフタをし続けて来ました。しかし、いくらフタをしても消えてくれない。その夏は考えることに疲れを覚えていました。標高3100mの朝日を見ながら、神様にこう祈りました。「神様、悩むことに疲れました。思い煩いを神にゆだねよ、そうしたら人の思いにまさる神の平安があなたがたの心と思いを守ってくださると書いてある、その平安を下さい。」そう祈ってから、その日のディボーションの箇所を開いたのでした。
いつものようにその日の聖句集を開いてみて驚きました。「恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」とありました。平安を下さいと祈って、平安があるようにという御言葉が与えられた。偶然と捉えれば今日私はここに立っていません。しかし主は、私があの日ああやって祈ることも、そしてあの日のためにこの御言葉が選ばれるということも、全てご存知だったということです。
聖句集には、スペースの関係で御言葉の全文が載っているとは限らなかったので、聖書そのものを開いてみて、さらに驚きました。Iペテロ1章2節なんですけれども、お読みいたします。「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」ただ平安があるようにというだけではなく、「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。」とありました。選ばれた人々という部分を読んだ時に、読み手である自分のこととして以上に、こういう人々がいるということ、その群れに対してこの手紙が書かれているということを思わされたのです。それはつまり教会のことだと。その時、教会に仕えるという道でいいのだと、受け取ることが出来ました。合わせて、詩篇の御言葉も与えられました。詩篇103篇11節です。「天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。」富士山の八合目で、朝日の昇る一面の雲海を見下ろしていましたが、「天が地上はるかに高いように」と言われ、上に目を向けると、本当に天が高くて。すごかったんですよ。地上から見るよりも高かったんじゃないでしょうか。これを創られた方がいらっしゃる。御言葉とともに、創造の御業に圧倒される思いでした。僕は神様じゃないから、神様の御心は分からない。聖書には自分の名前は出てこない。でも、神様はこうやって御言葉を与え、ご自分の創られた世界でもってそれを確かなものとしてくださる。そう思いました。先ほども言いましたけれども、私に出来ることは、そこまでの神様の導きを感謝し、これからもそうであるようにと願い、神様の御心を生きることが出来るようにと祈り求めながら、歩んでいくことであって、それ以上のことではありません。確信を握り締めて強くは出て行けません、しかし、一つだけ確かなことは、神様はご計画をお持ちだということ。一つだけ「確信」という言葉を使うことが許されるなら、それは、神様はこんな者に目を留めておられるということ、です。それを信じて、歩み出したわけです。
大学卒業後、すぐに神学校に進む道は開かれず、教科書の出版社で二年間働きました。毎日充実していましたが、しかし忙しさの中で、献身のことを忘れていきました。頭では「いつか献身したい」と思っていましたが、それについて祈ることをしなくなったのです。そうやって、一年はあっという間に過ぎました。
しかしある友人から、「そんなに確かな召しをいただいていながら、なぜ応えないのか」という指摘を受けました。大学卒業後すぐに献身したその友人に対して、初めはカチンと来たわけですけれど、よく考えてみたら祈ることすらしていない自分に気づかされ、御言葉を求めて祈り出しました。献身するのはいつですか。神学校に進むのはいつですか、と祈り出したのです。
神様は私たちに御言葉をもって語りかけてくださるお方です。それはある日ダイレクトメールのように届くわけでもないし、聖書をバラバラと開いて「今日はここ!」というものでもありません。そうやって語られることもあるかもしれませんけれど、御言葉は神様を礼拝し続ける中で与えられるわけですよね。礼拝のメッセージであったり、ディボーションの御言葉であったり、友人との何気ない会話であったり。御言葉を求めて祈り出した私は、献身の決意をした時のように、分かりやすく示してくださいと祈りました。与えられる御言葉というのは、「お前は200●年の四月にどこどこの学校に入学しなさい」という御言葉ではないわけです。しかし私たちは、神様が自分の状況をよく分かってくださっていて、気にかけてくださっていることを信じるには十分な語りかけを受けます。折しも、教会では牧師の切なる祈りが差し出され、みなが一丸となって祈り、そして主がそこに豊かに応えてくださるというあの日々と重なっていました。私は祈りに応えてくださる主の真実を目の当たりにしながら、期待して主に祈り求めました。
ディボーションで読む箇所では、例えばパウロが「近いうちに行きたい。」と語っていたり(Iテモテ3:14-16)、アブラハムはその時75歳だったとか、とにかく「時期」について語られていると感じました。夢で会社の役員から「五年も経てばお前も力士だから。」と言われたりもしました(それにしても力士って…)。ゼカリヤ書では、預言者が「主よ。これらは何ですか?」と主に申し上げ、「知らないのか」と言われれば「知りません。」と正直に応える素直な言葉に励まされました(4:5)。また「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」(I列王記19:7)と言われた預言者エリヤは養われ、力を得て40日40夜歩き、神の山ホレブに着きます。そこで外に出、風と地震、火、そしてかすかな細い御声を聞くのです。私にとっての40日40夜が過ぎた時、主はお語りくださると思うと期待でいっぱいでした。そこへ向けて、主はすでに何か語っておられる。何かは分からないけど、主は確かに語りかけてくださっている。毎日が嬉しかったです。
そして、ある日のディボーションで与えられた御言葉がIIテモテ1:9-14でした。抜粋してお読みします。「神は私たちを救い、また聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。」これは福音そのものについて言っています。献身というよりは、信仰全般に関することです。しかし11節、パウロのように「この福音のために宣教者、使徒、また教師として任命される」という、これは献身のことだと思いました。飛んで14節「あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。」私たちには福音が与えられている、この福音のために、献身するとはそういうことかと、素直に思わされました。であれば、来年の四月に神学校に進みたいと、平安に満たされて、決断することが出来ました。
しかし、そのように一度決断した後も、忙しさの中でその平安が薄れてしまいました。ああでもない、こうでもないと迷走し出した私は、夏休みを利用してまた富士山に登って来ました。その三年前に主が御言葉と確かな平安をもって語ってくださったあの場所で、一人静まりたかったのです。周りからは山岳信仰だの何だのと冷やかされつつ出かけたわけですが、こちらの思惑を超えた、すばらしいディボーションの時となりました。白く澄み渡った大空の向こうで、灰色の雲を切り裂きながら、チェリーのような丸い太陽が昇るのを見た時、この世界を創られたお方がどんなに確かなお方かを再度思い知らされました。与えられた御言葉も、またもやドンピシャリ。詩篇104篇1,2節「わがたましいよ。主をほめたたえよ。わが神、主よ。あなたはまことに偉大な方。あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。あなたは光を衣のように着、天を、幕のように広げておられます。」また、ヨハネの福音書11:40「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」わたしは言ったではありませんか、とまで言ったではありませんか。そんなふうに言われた気がしました。その半年後、2005年の4月に神学校に入学し、祈られ、守られて先日卒業することが出来ました。
お分かりいただけたと思いますが、献身に際して、御言葉がガーンと示されて、分かりました主よ!と勢い良く答えたわけではないのです。献身の思いを忘れたり、一度決心してもそれが揺らいだり。私の確信なんていうのは吹けば飛んでしまうようなものでした。しかし、私が上向きだろうが、下向きだろうが、神様ご自身は変わらないのです。神様の御言葉は、変わらないのです。自分自身があっちを向こうが、こっちを向こうが、御言葉によって方向付けられて歩んできました。御言葉は真実です。そのことを私は今日、みなさんの前で証したい。
特に昨年の今頃は、献身ということの重さに潰されそうになっていました。聖書を学べば学ぶほど、こんな者が教会に仕えることなど出来るのかと不安で仕方がありませんでした。その緊張感は基本的には今も変わりません。エレミヤ書23章28節にはこう書いてあります。「夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか。―主の御告げ―」先日の卒業式で語られたことですけれども、麦もわらも、同じような匂いで、簡単に混ざり合ってしまうものです。しかし主は、「何の関係もない」と言われる。これは恐いことです。
しかし麦だけを取り分ける方法があります。風です。脱穀機の中に風を送ると、もみがらは吹き飛ばされて、実だけ残ります。聖書は聖霊を風と表現しますが、この風によってのみ、御言葉の役者は御言葉を語ることが出来るのです。私自身が上向きだろうが、下向きだろうが、変わらないのは神様の御言葉です。御言葉を分からせてくださる聖霊のご性質です。それは変わらない。うつろいやすい自分自身に一喜一憂するのではなくて、変わらない神様に目を留めるということ。神様に委ねて、信頼するということ。それは信仰の基本だったのでした。献身とは、私がどうやって神の栄光を表すかではなく、神様が私を用いてどのように栄光を表されるかということ、そちらの方が大切なのだと思います。
エレミヤ書の冒頭には、若い預言者エレミヤの召命の記事があります。自分の若さを理由に、召しへの応答を躊躇するエレミヤに、主はこのように言われます。1章7節、「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。―主の御告げ―」彼らの顔というのは、私がこれから福音を語り伝えていく相手のことかもしれないし、教会の中のみなさんのことかもしれないし、自分自身の事かもしれないと思っています。しかし、自分も含めて人の顔をうかがうのではなく、神様の御顔をこそ仰いでいきたいと願っています。「召された自分」ではなく、「召してくださった方の召し」を信じて、その方をこそ仰いでいきたいと願っています。みなさんも、それぞれの場所に今置かれています。その場所で主の御心を求めながら、共に歩んでいこうではありませんか。
私自身の中には語るべきものを何も持ちません。人生の先輩、信仰の先輩方を教え諭すなんて出来ません。それこそ恐ろしいですよね(ここ、笑うところです)。ただ、共に聖書を開き、一緒に泣いたり、笑ったり、悲しんだり喜んだりしながら、神様の御心を求めて歩んでいく、そういう場所に置かれた者として、役割を果たしていきたいと願っています。人に仕えるということ、愛するということ、共にいるということ、まだまだ学んでいる最中ですが、神様の恵みを分かち合いながら、歩んでいきたいと願っています。以上で証を終えます。
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